2010/02/22

おじいちゃんに呼ばれた日

今年の1月2日、1年半ぶりくらいに小湊鉄道に乗って母親と養老院におじいちゃんを訪ねた。
昨年の12月でいよいよ95になった。なかなかの長寿だ。今まで認知症にもなることなく、よく手紙を送ってくれていた。
あまりにもこちらの返信が遅いと、切手を貼った返信用はがきまで入れて。笑
1年半ぶりのおじいちゃんは一回り小さくなっていて、耳も遠く、足元もおぼつかない感じに。
話していればだんだん記憶を手繰り寄せ、昔のことを思い出していくけれど、一人日向に座っていると、本当に意識がここにあるのかと思うほど、時間を過去において来てしまったように見えた。
帰りの時間が近づいて、またねという時、何だか元気な姿を見るのは最後な気がした。

二日後の1月4日、おじいちゃんは倒れ、近くの病院に入院した。
病院に見舞いに行った母は、開口一番「飯が不味い」って言ってたわ。あの人まだ元気よ。と笑っていた。
本当にご飯がおいしくなかったからなのか、おじいちゃんは食べることを拒絶し、そのまま衰弱してついに点滴に。
一か月という期間であっという間に寝たきりになった。
その後肺炎を発症。母親は週末見舞いに行くため家に泊りに来るようになった。
もう少し落ち着いてから、ということで、私はずっと見舞いには同行しなかった。
先週末もいつもの通り母親は金曜日に来て土曜に見舞いに行くという。
なんとなく、私も行こうかなと切り出した。毎週のことなのに、なぜその時そう思ったのかは今でもわからない。
カービングの予定をキャンセルして土曜を空けた。
昼過ぎに母親と出発。茂原は遠い。お昼を食べたりしていたら結局着いたのは16時過ぎだった。
病院に到着すると、30分くらいの入れ違いで母親の従姉妹が来ていたことがわかった。
おじいちゃんが入院していることもまだ知らせていなかったはずなのに、養老院に電話して聞いたのかもしれない。
会えなかったけれど何十年も会ってない人が同じ日に来るなんて。
おじいちゃんは昏睡状態で、手を握ったり声をかけたりしても目を空けることはなかった。
酸素マスクをして呼吸をしていたけど、何だか苦しそうな呼吸だった。
病院の先生には、このまま平行線か、すとんと逝ってしまうか、まだわからない、と言われた。
先々週母親が見舞いに行ったときには意識はあったらしい。
一気に坂を駆け下りているということか。
2時間くらいしておじさんが来た。母親の弟。会うのは23年ぶりくらい。
奥さんも来た。うちの家系とはあまりウマが合わず、殆ど顔を出さない人だ。
私も過去に一度くらいしか会ったことがない。
おじさんたちに千葉まで送ってもらってその日は帰った。
帰りの車の中で、養老院の人もその後見舞いに駆け付けたと連絡があった。
誰に呼ばれたわけでもなく、一日にこんなにもいろんな人がおじいちゃんを訪ねた日はない。

翌日母親はおばあちゃんの家に行き、私はいつもの日常に戻った。
星野道夫Northan Lightsを読みふけっていたら乗り過ごして大宮まで行ってしまった。
この本はとてもいい。人間の忘れがちな本質や、あるべき姿や、大きな流れを感じさせてくれる。
関係ないけど「一は全、全は一」という鋼の錬金術師に出てくる言葉が好きだ。どちらかというと逆の方がゴロ的に好きだけど。「全は一、一は全」

夜自宅に帰って一週間分のお弁当のおかずを作り、気付くと母親からメールが入っていた。
もう12時過ぎだ。
19時21分におじいちゃんが亡くなったという知らせだった。

なるほど、土曜に皆を集めたのはそのためか、という気がした。
皆知ってか知らずかお別れを言いに来たのかもしれない。

星野道夫の本だったり、おじいちゃんに呼ばれた偶然だったり、世の中には目に見えない何かがあるんだなという気がした週末だった。
今自分の周りに起こっている出来事も、起こるべくして起こっているのかな。
だとしたらそれをポジティブにとらえて転機にしていきたいと思う。
そのことに気づかせてくれたおじいちゃんに感謝したい。
ありがとうございました。
どうぞ安らかに。。

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